白酒の歴史

ひな祭り

ひな祭りには、白酒(しろざけ)がつきものである。 3月の節句に白酒を飲んで、邪気を払うことが行われるようになったのは、 中世末からで、これが民間に広まったいったとされています。

ひな祭りが盛んに催されるようになると、 白酒は雛壇への供物にもされました。

「宝歴現来集」に、江戸の話しとして、明和・安永のころ(1764~1780)までは、 2月20日より3月12日ごろまで、白酒を売り歩く行商人がいた。 それゆえ、白酒(しろざけ)が売られると、雛節句が近寄ったとして、女の子たちがよろこんだという。

なお、白酒(しろざけ)を供える理由については、 桃の花に白い色がないところから、桃色に対して白酒(しろざけ)を用い、 赤と白で紅白をおめでたいとする風習からも来ているらしい。

ひな人形

遊びと祓い

ひな祭りは、3月3日の節句で、雛を飾って調度品を整え、菱餅(蓬餅)、白酒(しろざけ)、桃の花などを供えて祭る。

その起源は平安時代だといわれている。

ひな祭りお内裏様  ひな祭りのお雛様

源氏物語の「若紫」に「ひひな遊びにも絵画い給ふにも、・・・」とあるように、女児が人形をもって遊んでいることに、その起源のひとつの要素があるとされている。

3月3日にひな祭りを行うのは、中国の「上巳の祓禊」が3月3日に行われることに由来する。すなわち、中国では3月3日あるいは、3月の上巳の日に、水辺に出て不祥を除くための禊・祓を行い、宴会を催して祝しているのである。

これは明らかに、けがれを祓い清めると同時に、招魂の意味も含まれているが、日本にあっては後者の招魂の意味はなく、独特の祓いの思想と合致して、大いに発展することになった。

「日本書紀」の顕宗天皇の元年に「3月上巳、後苑に幸して、曲水の宴す」と記されるように、3月上巳の日に、「曲水の宴」が開かれている。

その3月上巳の日が、3日に統一され、この3日に天皇は水辺に行幸され宴を行い、文章生らも集まり詩会が催された。奈良時代にはすでにこの宴は盛んであり、平安時代に入ってもますます盛大に行われた。

清涼殿の庭に曲溝を作り水を引き入れ、そこに酒杯を浮かべ、文人たちが集まって、杯が自分の前を流れすぎぬうちに、歌を詠むという風流な宴会が行われていた。この曲水の宴は水の精霊に対する祭のひとつで、不祥を流水に託して除去することが、宴になったのであろう。この曲水の宴は多く絵画化されている。

ひな人形の絵

また、祓の道具として贖物と称する人形が、この日に用いられることがある。

自分の罪を人形に託し、人形を肌身にすりつけ息を吹きかけ、これを水辺に棄て流す風俗は、わが国に古代からあった。

「延喜式」にも認められ、「阿末加津(天児)」「這子」などが、古代から存在していたことによってもそのことが知られてるであろう。

「源氏物語」の「須磨」に、源氏は上巳の祓を須磨の海岸で行い、人形を海に流している。さらに、「源氏物語」の「紅葉賀」に、「ひひなの中の源氏の君、膳ひ立てて、内裏に参らせなどし給ふ」とあるように、幼女の遊びとしての小さな人形と上巳の祓の人形とが結合して、のちに盛んになる雛人形となるのである。

中世以後は次第に立派なものとなり、棄て雛(流し雛)ばかりではなく、飾り雛もつくられるようになった。

江戸時代になり、宮廷の階層をまねた雛段をつくり、いっそう華やかに飾り立てたひな祭りとなっていくのである。ひな祭りの終わりに、雛を送ることは、この行事の本来の意義、すなわち撫物を流すという祓の行事を行うことで、現在でも「送り雛」「流し雛」といって行われているところがある。

節日に供物をそなえ、酒宴を催すことは広く行われているが、この三月三日の雛祭には、白酒(しろざけ)や蓬餅(草餅)、桃の花が供えられるのである。

桃の花が飾られるのはいつの頃か明らかではないが、室町時代の上巳の節供には一般でも飲む白酒(しろざけ)を桃花酒とよんでいる。

これは季節の花を冠しただけではなく、中国で行われていたことを取り入れたのである。

すなわち中国では、桃は邪気を払う仙木とされ、西王母の桃の神話や武陵桃源の伝説があり、武陵の桃花を浮かべ、流れ出る水を飲めば気力が充実し、三百歳の歳を保つといわれた。